短編食堂STORY

尾道の海と原風景

高校時代、自転車こいで いつもの帰り道。その道沿いには、当たり前のように 穏やかな尾道の海があった。

尾道の海と原風景

防波堤で、バカバカしくなる程 はしゃいだ日も、答えを見つけられずに苦しんだ日も、海が赤く染まり夕暮れが訪れる頃には、少し穏やかな気持ちになっていた気がする。
「腹減ったな!」と笑いながら、沈んでいく夕日と競うように、自転車こいだ。
誰もが故郷のどこかに抱いているであろう原風景の1つ。それが自身にとって、生まれ育った尾道の海だった。
夕暮れの海は、ふいに 余計な見栄のようなものを薄め、いつもより少しだけ素直にさせてくれる時がある。夜の帳が下りるそのわずかな間は、いつの時代も、ある意味 非日常な隙間でありながら、老若男女問わず、なぜか惹き寄せられてしまう普遍的な時間なのかもしれない。そしてその時、自身を素直に顧みれたり、誰かに優しくなれるのだとしたら、きっとそれは、良い時間になり得ると思うのです。

.

洋食と記憶

洋食は、西洋料理をベースに 明治から長い時間を経て、日本人の好みに合わせ 、独自の進化を遂げてきた食文化です。例えばハンバーグは、その代表格の1つ。
初めてナイフとフォークで食べたレストランでの味。恋人が初めて作ってくれた味。記憶と共にあるハンバーグは、時として、温かな風景を思い出させてくれるかもしれません。


そしてこれから先も、ハレの日の食卓を彩ることもあれば、ケの日(日常)の食事として、寄り添ってくれることもあるでしょう。
洋食という文化は、時代と共に少しずつ変化しながら、どこか寛容で いつの間にか普遍的な存在となっていきました。そのエッセンスが、自身の原風景でもある 尾道の海で過ごした時間と重なるような気がして、そんな良い時間を 食事を介し過ごせるお店をいつか開きたいと思いました。

.

短編食堂 店名の由来

食事を介して、この空間で過ごす時間は、1日のうちわずかな間です。それは例えるなら、長編というより短編小説のようで。
ここで過ごす時間が、願わくは 心の琴線に触れ、記憶の片隅に残りますよう、また色々な物語が生まれますようにと、淡い気持ちを込めて「短編食堂」と名付けられました。

.

4枚扉の意味

どんな方達が短編食堂を訪れるのだろうか。ふと そんなことを想像します。
今までどんな人生を歩んできたのでしょう。人の数だけ価値観はあって、嬉しかった事、悲しかった事、それこそ十人十色。それぞれ違う道を歩んで来たのだから、短編食堂への扉は別々に というイメージ。
短編食堂という空間で、温かい洋食で、お腹と心を満たし、再び それぞれの道を歩いて行けるよう願って。

.

記憶を味わい、記憶を紡ぐ

短編食堂で食事をされた帰り道、良い時間だったと感じてもらえたならいいなぁと、いつも思っています。開業前、そんな後味の良い風景を思い浮かべながら、逆算して短編食堂を構成しました。
ある本の中に、心に残っている一節があります。
 
 お土産をくれる人がいて嬉しい。
 お土産をあげる人がいて、もっと嬉しい。
 誰かを思い、誰かに思われる。
 そんな美しい円を僕も描くことができたら。
 そう思うんだ。

その境地に至るには、一体どれ程時間がかかるのか。それでも、縁あって訪れてくださった方々と短編食堂との間で、奇跡的にもそういう円を描けたとしたら、言葉にならない感情が込み上げそうです。

洋食店にとって大切なものの1つに、デミグラスソースがあります。色々な思い出と共に受け継がれ、少しずつ時間を経て、深い味わいとなっていきます。移り変わる激しい時流に揉まれ、栄枯盛衰の世の中で、その時代に添って変化しながらも、脈々と歴史を紡いできた洋食のエッセンスは、普遍的であるが故に、どこか優しく、いつだってホッとさせてくれそうな気がします。


嬉しい時、悲しい時、また他愛ない時も、お腹が空いたらいつでも扉を開けておくれと。
短編食堂という空間を借りて、洋食を介し届けたいのは、過去/現在/未来へと繋がるかもしれない、そんな時間。

『 特別でも、特別じゃなくても、特別な時間に。』

誰かにとって ふと思い出してしまうような、何となく良い時間を過ごせる一助となれるならとても嬉しく、心より安堵します。

そんな時間を皆様と共に積み重ねていけるなら幸いです。

短編食堂 店主